■運転手
この仕事、個人タクシーの運転手なんてものを長くやっているとね、やっぱり遭遇するんですよ。人知を超えたというか、理屈じゃ説明のつかない出来事に。
同業者の中には「幽霊を乗せた」なんて真顔で語る奴もいますが、私自身は霊感なんて全くないタチでしてね。
ただ、あの夜のことだけは、今でも背筋が寒くなるというか、妙に生々しい違和感のある出来事として記憶に残っているんです。
季節は梅雨入り前の、湿った風が吹く夜でした。
日付が変わる少し前、郊外の駅のロータリーで客待ちをしていたんです。
終電間際の人影も疎らな時間帯。
ふと見ると、タクシー乗り場の柱の影に、ニット帽を被った女性が立っていました。
長い黒髪を下ろし、白いマスクをつけている。
俯き加減で、疲れたような様子でした。
自動ドアを開けると、彼女は重たい動作で後部座席に滑り込みました。
「どちらまで」
彼女は答えました。
「東京都、目黒区……」
かすれたような声でした。でも、最初は普通のトーンだったんです。しかし、番地を告げる段になって、急に喉の奥を締め付けたような、低く、押し殺したようなしわがれた声に変わっていきました。
まるで、この世のものではない何かが無理やり人の言葉を真似ているような、そんな響きでした。
ナビに住所を入力しました。画面に表示された目的地を見て、私は思わず眉をひそめました。
そこは住宅街の外れにある、大きな霊園の入り口だったからです。
「お客さん、ここで合ってますか?」
おそるおそる、バックミラー越しに確認しました。彼女は深く俯いたまま、あの奇妙に潰れた声で「はい」とだけ答えました。
それきり、車内は重苦しい沈黙に包まれました。
タイヤがアスファルトを噛む音だけが響く中、私の脳裏にある記憶が蘇ってきました。つい先日、ワイドショーを騒がせていた事件です。
タクシー運転手が、乗客の若い女性を連れ去り、殺害したという陰惨なニュース。犯人の供述によれば、一方的な好意、歪んだ執着が動機だったとか。
そして、その被害者というのも確か、今のこの客と同じような、髪の長い若い女性だったはずです。
一度そう思い込んでしまうと、もういけません。深夜の車内、行き先は墓場、そして不自然な声色。まさか、この女性は……。
私はハンドルを握る手にじっとりと脂汗が滲むのを感じました。バックミラーを見るのが怖い。もし覗き込んだ瞬間、マスクの下の顔が崩れていたり、恨めしそうな眼でこちらを睨みつけていたらどうしようか。そんな妄想が膨れ上がります。やめてくれ、私は関係ないんだ、と、必要のない言い訳まで浮かんできます。
車は街灯の少ない道を走り抜け、やがて目的地の霊園前に到着しました。闇の中に墓石が立ち並ぶ風景は、昼間見るそれとは全く異質の不気味さを放っています。
「着きました……」
私は恐る恐る声をかけました。シートがぐっしょりと濡れて、女性は消えている……ということはなく、やはりそこにいました。彼女は妙に慌ただしく動きました。
「これ」
財布から千円札を数枚掴み出し、トレイに押し付けるように置きます。
「あ、お客さん、これじゃ多すぎますよ」
メーターの表示よりも随分多い金額です。しかし彼女は「いいです」と、やはりあの低くかすれた声で短く言い捨てると、ドアが開くのももどかしい様子で車を飛び出していきました。
彼女は墓地の入り口へ向かうのではなく、その脇の暗い路地へと、何かに追われるように走り去っていきました。
私はしばらく呆然としていました。シートが濡れているわけでもない。お札も本物だ。実在する女性としか思えません。けれど、あの異様な雰囲気、そして墓場の前で降りて走り去った後ろ姿。あれは一体なんだったのか。
もしかすると、あの事件の被害者の霊が、何かを訴えたくて私の車に乗ったんじゃないか……そんな馬鹿げた考えが、今でも頭をよぎることがあるんです。冷静になれば、考えすぎなのかもしれませんが、妙に記憶に残る夜でした。



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