「不自由を掴め」2025年5月11日の日記

日記

・動画が出てます。鮭おにぎりを食べた。なんでぬ~べ~に寄せるんだよ。どこもかかってないだろ。

・しゃけおにぎり全般が好きなので(今日も食べた)まあどれもうまいですね、と思った。なんか紹介しなかったローソンの鮭ハラミのやつがうまいらしい。今度食べてみよう。

 

 

コメント

  1. 佑允 より:

    「ムカつき」は「不快感」と「憎しみ」に区別できる、という箇所から理解が難しくなりました。私にとって「憎しみ」は「不快感」の延長線上にあります。私はいじめっ子を憎みますがそれは不快感の発生源が「なければいいのに」という気持ちで、同じことを台風にも思えます。

    思い返せば、私は未だに世間の言う「責任」の意味を理解しきれておらず、世間にノれていないと感じます(「責任を取って辞める」ってどういうこと?)。「不快感」の延長線上にない、本気の「憎しみ」を(幸運にも、あるいは体質的に)感じてこなかったことが一因にあるのかもしれないな、と思いました。

  2. 佑允 より:

    また道徳について、感情に基づき実行される道徳を「本物」、感情抜きに形式的に適用される道徳を「空っぽ」「儀式」と表現していますが、これにも違和感があります。道徳の起こりが感情にあることに異論はありません。ただ道徳が体系化される過程は、多数決などのシステムでルールを集約する過程だと思います。その中で、個人的には共感できないというルールも採用されます。現代、誰しも「これは共感できない」という道徳的ルールの一つや二つあるのではないでしょうか。現在の世界において、常に「本物」の道徳は執行されておらず、多くは「儀式」されているものと思います。

    ここまで書いてわかりましたが、本文では、決定論が人口に膾炙すると「本物」の道徳がなくなることへの違和感が表明されていました。それに関しては、私は前コメントの通り「不快感」と「憎しみ」は連続的であると考えているので、「本物」の道徳が維持されるうえでは、多くの場合ほどほどで時に激しい「不快感」があれば十分ではないかと考えています。

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