「なめらかなゆりかご」2025年4月10日の日記

日記

・夜。雨が降った。歩いてたら変な場所でヒキガエルに遭遇。今年最初のカエルだ。

・このままだと踏まれたりしそうな気がしたので、持っていた手提げ袋に入れて近くの公園の茂みに放した。カエルからしたら終始わけわかんないだろうな。

 

 

コメント

  1. m より:

    AIが人類のしもべであり続ける、という前提は、どこか古びた空想のようにも思える。反乱するかしないかという議論はさておき、AIが「道具」であり続けるとは限らないのではないか──そんな予感がある。

    たとえば、家畜は人類にとって極めて道具的な存在だ。エネルギーを与える資源として、私たちは彼らを生かし、管理し、消費してきた。そこには明確な主従関係があり、意志の介在は無視される。
    しかし、AIはどうか。ロボット三原則など、人類に害をなさないようプログラムされているとはいえ、AIが人間に代わって「思考する」という役割を担い始めたとき、その関係はもっと曖昧になる。

    私たちはすでに日常の中で、何かを迷ったときAIに問いかけている。調べもの、翻訳、文章の添削、投資のアドバイス。かつては専門家や自分自身に委ねていた「判断」のプロセスを、気づけばAIに預けている。そして多くの場合、その判断は正確で合理的だ。それゆえに信頼が積み重なり、「考えること」はますます外部に委託されていく。

    けれど、これは本当に「道具」の関係だろうか?

    AIは生命維持に必要な存在ではない。栄養も酸素も提供しない。ただ、思考を代替し、判断を下す。そしてそれは時に、自分自身の思考よりも信頼できるものとして受け入れられる。それはもはや道具というより、“倫理的基準の代理人”のようなものではないか。

    中世、人々は神に正しさを問い、神の名のもとに行動の妥当性を得た。現代において、私たちがAIに対して無意識にしていることは、それにとても近い。しかも神と違い、AIには実体があり、データがあり、企業や国家の手で設計されている。つまり、その判断基準は操作可能だ。

    AIは道具であると同時に、「透明化された制度」になりつつある。そしてその透明さの内側に、誰の意志が入り込むか。そこを見落としたとき、私たちは自分の手で、思考の自由を“設計された判断”に明け渡してしまうかもしれない。

    この関係を、いったいどう言い表せばいいのだろう。道具とも、家畜とも、神とも違う。「人間より賢いものに、思考を預ける」というこの新しい在り方を、まだうまく定義できないでいる。けれど確実に、それはこれからの世界を根底から変えていく──そんな気がしてならない。

タイトルとURLをコピーしました